FEELS SO GOOD

たのしければよいのだ

花屋のはなし

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今の時期、クリスマスを前に普段よりなんとなく存在感を増すのが花屋である。特に暗い夜道に急に現れる花屋、というのが非常にいい。白熱球(あるいは白熱球の温かさを模したLED)に照らされ、彩度高めのあざやかな花々が所狭しと並ぶ。むき出しのショーケース。日常を歩いていたはずなのに、空間の一部が根こそぎ変質したように、突如として出現する華やかな舞台。もちろん、花だけに。

季節のブーケはもちろんのこと、店内にはドライフラワーでこしらえた様々なリースが飾られ、ついでにクリスマスツリーのオーナメントも並べられ、店自体も店を見に来る人も、心なしかウキウキしているように見える。

 

床にはポインセチアが並べられることが多いが……、クリスマス以外のポインセチアって、どうなんでしょう。意外に赤くするのにコツがいると聞いたことがあるけど、じっくり1年育てた上で、なんとも微妙な赤と緑のモザイク模様ができあがったら……ちょっとしょうもない気分になりそうである。

それにしたって植物を育てるのは楽しいのだけれど!

 

 *

 

最近はお洒落な花屋が多いので、ショーケースとしての機能は昔と比べるとずいぶん改善されたものだなと思う。とにかくセンスがいい。

わたしがよく見る花屋に"les mille feuilles de liberte"というのがある。読みが「レ・ミルフォイユ・ドゥ・リベルテ」。

残念ながら語学堪能でないので、カタカナで検索してコピー&ペーストしてきた。とにかく語感、リズムがいい。声に出して読みたい花屋である。意味はまあなんとなくわかるが、一応Google翻訳さんにお尋ねしてみた。

 

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自由の千葉。

スピーカーボタンを押すと女性の声で流暢に、しかし力強く、「じゆうのチバ」と答えてくれた。不自由な東京、自由の千葉。千葉……県…………。

 

……というのはもちろん冗談で、まあ適当に意訳するなら「幾重に重なる自由の葉」とか、そんな感じになるのだろうか。「重なる」要素は無いようだけれど。

とりあえずこういう名前、この音をいいと思って花屋の呼称として名づけたその感性(を持つ人がいるという)だけで、信用に価する。実際の評判は知らないが、わたしは好きで結構覗いている。

 

 *

 

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こう言っては何だが、レ・ミルフォイユ・ドゥ・リベルテ青山フラワーマーケットよりいいのは確かだろう。青山フラワーマーケットは花の質が悪い。商業としてのお洒落なお花屋さんを演じているのがよくわかる。

けれどこの系列のお店である「青山フラワーマーケットティーハウス」は一応気に入っていて、まあまあ頻繁に訪れている。ガラスのポットに生のハーブをどっちゃり詰めてお湯を注いだものを、ひたすら飲むのだ。リフレッシュブレンドとリラックスブレンドの2種類があるが、あまり違いについては考えたことがない。どちらを飲んでも、とりあえず気分はよくなる。

小さめのミルクピッチャーにはちみつが入って一緒に提供されるが、ただでさえ少ないはちみつがピッチャーにぺっとりと貼りついて、大変もったいない。スプーンもついてくるけれど、ピッチャーに入る大きさでないし、毎回箸か何かできれいに拭い落としてやりたい気分になる。

 

 * * *

 

クリスマスの、お花屋さん。女児が幼稚園で「将来の夢はなあに?」と訊かれて答えるのが「おはなやさん!」だったり「けーきやさん!」だったりする。どちらもクリスマス要素満載である。今の子供たちは、みんなどう答えるのだろう。

わたしの周りで見た変な回答として「ふらいぱん!」というのがあった。その人は大人になっても、ものすごく変…………否、愉快な人だった。

人間そうそう変わるものでもないな、と思う。

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理性と狂気、意識の時間

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家にずっとい続けると気が狂う心地がする。だから外に出なきゃいけない。

気は実際には狂いはしない。今外に出なくちゃと思うように、狂わないために行動をし続けるように、何かができあがっているからだ。わたしの行動の根底にあるのは、常に、いかにして命を守るか、あるいはいかにして壊れないかということであって、だから本当の意味でわたしは壊れたことがない。理性が完全にぶっ飛んで、わけのわからないことをした経験というのは、恐らくない……だろう、と思う。理性はあって然るべきもの、小5のあの時から急速成長して、強烈な感情とバランスを取り続けてくれている。

 

わたしの中の二人のわたし。その二人は時間的にも空間的にもちゃんと連続しているわけだけど、そういう相反するものを抱え続けるのは単純にキツイ。大きな振り子が左右に行ったり来たりして、ずっとずっと止まることがない。

この振り子は人によって振れ方が様々で、小さく震えるように微動しているものもあるし、アルプスのブランコが如くあっちへ行ってこっちへ行って、ついでに体も振り回されて大変なやつもある。Gで手足がもげそうな勢いだ。もちろんわたしは後者である。……

 

今日もやっぱり出かけるんだろうな、と自分で思う。そして頭の中にはやっぱり意識があって、このブログの文章と同じようなものがほとんど毎日、滞りなく流れ続けている。頭の中の喋る私は、本当にとても上手に喋ってみせる。よく言葉が詰まらないものだな、と自分で感心する。

言葉はわたしの領域だ。そこは有象無象の跋扈する、豊かで厳しい海だ。言葉で自分を救い上げ、何度も定義づけ、それをやめ、言葉でやっぱり「言葉で語ってはいけないものがある」と考える。


言葉を扱うだけの元気がなくなったとき、絵を描く。でも絵を描くのは本当にとても大変だから、言葉の方が楽だ。理性がここまで固まってしまう前のわたしは、もっともっと丁寧に、綺麗に絵を描いた。あの絵はもう描けないのかな、とたまに思う。

今はそれができないから、代わりと言っては何だけど、陰鬱な絵を思いっきり描くことにした。ありったけのどろどろと冷徹さを込めて、腹に来る絵を描いてやりたいと願う。それもなかなか体が持ってくれないけど……。

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 *

 

……ごくまれに意識の濃度が薄い日、というのがある。ノイズが無い世界。認識できないのに、目に映る景色を美しいと思う。色がクリアで鮮明で、遠くから小さく、こんな風に毎日景色を眺められたらいいのに……とぼやく自分自身の声が聞こえる。今のところ年に数日あるかないかの、貴重な時間。そういう日のことは何年経っても覚えている。

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無題

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すりガラス越しに見えるぼんやりとした黒い点――恐らくこれは虫だろう――が、行ったり来たりしている。

指を重ねると逃げていくので、面白くなって何度も指を押し当てる。……ふと、この親指は、神様の親指なのだと思った。親指そのもので命が潰れることはないけれど、神様の指が落とす影から逃れるために、人はひいこら言いながら生きていくのだ。

それは世界の道理であり、逃れられない純然たる事実だ。


やがて虫は飛んでどこかへ行ってしまい、僕は親指を窓に押し付けたまま、横目で空を見た。マンションとマンションの隙間、細長い縦の光が、やはりすこし、遮られようとしていた。

雲が来るのだ。重く暗い雲が、たっぷりと水を携えて、こちらにやってくる。2つあるマンションの右側、やや背の低い青白い方の、とある一室のとあるベランダに、洗濯物がはためいている。あの量からして、3人は住んでいるだろう。しかしカーテンは閉ざされていて、人の気配を感じさせない。

数時間後、あの洗濯物はびしょ濡れになって、家主を激怒させるのだろうか。それとも悲しませるのだろうか。はたまた……。


僕はなにも知らない。わからない。

吉祥寺を好きだと公言するのはなんだかめんどくさい

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サブカルクソ女ですね、わかります。

 

 *

 

最近そこそこ真面目に未来のことを考えている。具体的にはまず富山でマイナンバーカードを受け取ったのち東京に戻って14日以内に転入届を出して住民票を移動する。

面倒だし二度手間だけど、東京に戻ってからマイナンバーカードの住所の記録を書き換えるために再度手続きをする必要がある。恐らく。住民票がこちらに移動すれば一応障害者手帳の取得なんかも考えることができる

実を言うとあまり役に立つか……自信はないのだけれど。交通手段や美術館・博物館をもっと気軽に利用できるならまあ本当にありがたい話だ。

 

 * * *

 

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そういえば、数日前はじめてクラウドファンディングというものに参加した。わたしの愛すべき吉祥寺……かつて闇市があった、清潔そうに見えてやや猥雑な街の、びかびか光るユニクロビルの向かいにある吉祥寺PARCO地下2階、パルコブックセンターの跡地に、なんか映画館ができるそうなのだ。アップリンク吉祥寺とかいうらしい。

正直地下2階の本屋は結構気に入っていたから、

 

「まーた本屋潰すのかよ。みんなamazon使わずに本屋使えよな」
「コピスにジュンク堂あるし仕方ないけどさ、ジュンク堂の在り方そんなに好きでもないし、あの適度にあったかくてダサい空間(褒めてる)残しておいてほしかったよなーー」

 

なんて内心愚痴ぐちしていたのだけれど、あの大して広くもない空間を映画館にしようだなんて、なかなか面白いこと考えてくれるじゃないか、と。まあ、それにしても本屋は残してほしかった気はする。

あと関係ないけれど、あのでかいユニクロビルは要るのか?きっちりかっちりしたビルが表通りに向かって、服を着せたマネキンをくるくる回してみせたりする。なかなかシュールというか、お馬鹿な光景である。あれ見て購買欲をそそられるのかは本当に謎だ。アトレ吉祥寺の地下にあるので十分じゃない?……

 

映画館の話に戻ろう。クラウドファンディングなんて噂には聞いていたけれどあまりにも敷居が高すぎて、これまでやってみようだなんて思いもしなかった。手で触れるものが好きなのだ。支援するなら現地で直接お金を放り込む方が気が楽に思える。

しかし、だ。調べてみたらなかなかユニークな試みだと思えたし、あの空間に5スクリーンも詰め込んだうえで、それぞれに異なるテーマを持たせるというのは正直想像がつかなくて、荒唐無稽で、だからとても応援したくなった。なかなかいい意味でトチ狂った企画である。

 

で、まあクラウドファンディングであるのだから、資金集めも当然ネット上で行うのだが。ここで一つ問題が発生した。

 

(該当する)クレジットカードがない…………。

 

VISAは使えるらしく、エポスカードってVISAじゃなかったっけ?と思って財布を開いて見てみたら、ただのハウスカードだった。クソ。めんどい。

まあいい機会だしクレジットカードに格上げするか~マルイはなんかその辺楽勝と聞いておるぞ!自己破産した人に便利って聞いたことがある!なんて思いつつ調べたら、顔写真付きの本人確認書類が必要だという。そりゃそうだよね……。

このこともあって、記事冒頭のマイナンバーカードの話にやっぱり戻るわけです。

 

 *

 

結局アップリンクの代表である浅井隆さんが(恐らくエゴサして見つけた)自分のツイートを見て


「該当するクレジットカードがない人はここに連絡してね!!(メールアドレス)」

 

ってわざわざ書いてくれたので、迷いに迷い、めんどいなあ、今残り5日ほどで90%だけど達成するんかいな、ATM手数料がな~~とか思いつつ、でもやっぱり応援したいから、メール書いて返信待ってメール返して振り込んで振込完了しましたメールを送り再度確認の連絡をいただいて、終わった。完。

結局駆け込み需要か何なのか、締め切りの一日前、10月30日にはクラウドファンディングは祝!成立おめでとう!!となっていた。めでたいことである。1400円から支援できるというのは気が楽だったし、これでオープンする12月から、晴れてアップリンク会員(1年間の期限付き)というわけだ。

 

……最後にどうしようもないことを書くが、実のところ映画は大の苦手である。正確には映画館で見る映画が、苦手である。入った瞬間からの緊張感、ポップコーンをぼりぼり食べたら白い目で見られるし、靴脱いで座席に体育座りだってできないし、誰も喋らないし。頭で考え事しているうちにものすごい勢いで話が展開していくし。巻き戻せないし……。

意識が他者と交わりやすい人たちはきっと雰囲気に呑まれるとか、容易くできるのだと思う。無理。意識して黙って体を硬直させることの何が楽しいのか……。そしてその不自然な体勢を忘れられるほどに面白い映画がどれだけあるというのか。いや、あるんだろうけど。上に書いた理由であまり見に行かないものだから……。

月一でトークフリーデーか何か設けてくれないかしら。応援上映は、駄目です。叫ぶ人は苦手なので……。

無題

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何もない一日の始まり。

使い果たした感情の回復、自分を癒すための言葉たち。


東京の空は富山のそれと違う。色が濃くてはっきりくっきり鮮やかである。不安定だった天候もここのところ落ち着きを見せて、今日も空は高く、見事な秋晴れとなっている。

「基本的に」いつも一人だ。一人じゃなくなった、というのは絶対比較の問題で、わたしの望むものはまだずっと遠くにある。もしかしたら一生届かないのかもしれない。

人生の中で一人じゃなかった時間というのがどれだけあっただろう。たしかに彼氏なるものがいた時期もあったが、あれはまあレアな状態ではあったのだ。わたしは自分にそういったイベントが何も起こらずに死ぬのだと信じていたので、まあ、事故みたいなものだった。今振り返ると、きっと幸せな事故だったのだろう。


一人の定義とは何だろう、と思う。昨日はイベントが2つあったが……、終わってしまえば次のイベントまで何もない日が続く。次は11日、それまで1週間以上開いてしまう。

もう慣れた、もう慣れている、と心の中で何度も呟く。実際本当にそういう時間には慣れきっていて、改めてこんなこと書く必要もないくらいには、わたしの時間は一人の状態で満たされているのだった。

それでいいけど、それでよくない。今この瞬間の自分は、なんだか随分と怠惰だ。

 

朝から目が覚めても意味がないのに、とどこかで思う。それでも夜眠れて朝起きれるのは、まあ……体調がいい証拠ではあるのだろう。体が動いてくれるのは幸せなことだ。

今自分がこんなことを書いているのは、また気持ちを消費しきったからなのだろうか?簡単になくなるわりに、回復だけは遅いのだ。回復の手段が欲しいと切実に思う。感情の、急速充電。

 

わたしはいたって普通のつもりだけれど、それはわたしがわたしの世界しか知り得ないだけで、やっぱり世界のはじっこにいるのかもしれない。

だけれども、それもわたしが今この瞬間世界を「そう」見ているだけで。世界の見え方は主観に左右されるから、わたしが今こう見たいと思っているから、世界はこう見えているのだ。

それで構わない。自分はまた「元気になってくれる」。だから、だからこそ、たまにこうやって何か不甲斐なさみたいなものに思い切り浸って、駄目でいる時間が必要なのだ。

 

 *


空は高く、澄んでいる。朝の輝きに満ちている。カーテンから光が漏れて、凸凹した壁を明るくじんわりと照らす。壁は白く、清潔極まりない。向かいに見えるマンションの窓に空の青が反射して、一緒に青に染まっている。……きっと夜には明かりが灯ることだろう。あそこには誰が住んでいるのか。

 

イベントがある日は人と喋れる。運が良ければ、わたしが思うことの一部を喋れることもある。何を見つめてきたのか。世界がどう見えるのか。好きと嫌いと、格好良さと、だささと。

ほとんどの人とはそういったことは話せない。面食らうようではある。だから話せないというより、話さない。にこにこと共通項について語っていればいい。それでその瞬間は楽しくて、本当に問題はないのだから。

 

 *


こんな風に富山が晴れる日は、遠くに立山連峰の連なりが見える。夜には牛岳スキー場だって、はっきりと見える。スキー場特有の、けばけばしいといっても差し支えないような背の高い強力な照明が、遠く遠く光の点になって、綺麗な曲線を描いている。

冬と雪の記憶。闇に辺りがつつまれて、デザインとか意匠とかそういったことを全く意識していない簡素な街灯が、ぼんやりと円錐状の光を落とす。けれどそこには誰もいなくて、そのライトアップされた舞台を、ほとんど真横の風に流されて、雪が吹き飛んでいく。

 

……目を瞑れば明確に思い出せる。北陸の冬とは、つまりそういう冬なのだった。

あいまいなものを箱に詰めて

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近所の商業施設地下1階で買った2割引きのいなり寿司6個入りを食べている。
自炊もいいけれど惣菜はやっぱり楽だ。そもそもいなり寿司を自分でつくる気力はないし、甘くてしょっぱくてエネルギー補充には便利である。冷蔵庫で冷やしすぎたので、米は少々固い。


 * * *

 

今日は疲れているから自分のために文章を書く。感情と気持ちの整理。感情や気持ちといったあいまいで不確かなものは、基本的に脳の要領を食う。なので、こうやって文字という制限された明確な箱の中に入れてしまって、圧縮すると収まりがよくなるのだ。

写真で言うところの生データ、RAWで撮ったものをJPEGにする。RAW現像するとき……生のデータを自分なりに圧縮して人に見せられる形にしたとき、初めて他者に伝達可能なものとなる。もちろん圧縮したことでそぎ落とされるデータもあるが、全部が全部、まるっと人に渡すことはできないのである。

それでも圧縮したJPEGには現像ソフトを使えばその人なりの表現が加わるし、JPEG撮って出しでもSONYならSONYの、NikonならNikonの独自の表現が加味される。そしてそれらは選択可能、なのだ。

 

(……この辺のデータの話はあくまでPCとカメラにそこまで詳しくない人間がふわっと説明してるので、野暮なツッコミとかツッコミとかはノーサンキュー、です)

 

自己矛盾というのは実に疲れる。ある瞬間お気持ち人間になる癖に、別のある瞬間には冷徹なロボットになれる。しかしロボットを冷徹と言ってしまえるのかも最近はよく分からないのだけれど。
ロボットだから破壊してしまえる、というのはある種理解できるけれど、その手の人間は嫌いである。人間の意識、感情が崇高で他の動物やロボットは持ちえないとするのは、とてもつまらない。……理性的ではあると思うが。でも随分と高慢だ。

一つひとつごくごくシンプルな物理現象が複雑に絡み合って人間を構成する。ロボットが……人工知能が今よりもっともっと莫大なデータを扱うに到ったとき、そのとき人間の意識とどれだけの差があると言うのだろう。


たかが人間、されど人間。


気持ち、感情というのはあいまいで不確かでやたらと要領を食うくせに、そのあいまいさ、不確かさがときに強力に人を救ってみせたりする。本当に人間は愛すべき馬鹿である。わたしもほとほと疲れたし、でも何もかも諦められない。めんどうくさいが、それが楽しかったりもする。
……書いていることはいつも同じだ。

 

どんなに素晴らしく幸せな出来事もどんなに悽惨な悲劇も、全部ぜんぶ人の営みだ、とどこか冷めた目線で見ている。心を痛めもする。たぶんそういったことを悲しいと思う気持ちは人より強いと思う。

だけれども。戦争が起きて旅客機が墜落してたくさんの人間が死んでも、地球温暖化だか何だか知らないがどんどん自然環境が悪くなっても、うなぎが絶滅しそうでも、どれもやってることは生命活動の一環だ、とどこかで割り切れてしまう。
基本的にはエゴなのだ、と。誰かの力になりたい気持ちも自己犠牲も環境の維持も……わたしたちは各々好きでそれをやっているに過ぎない。相手の都合などおかまいなしに。そしてそれでいいのだと思う。

大事なのは自分にとっての好き嫌いで、わたしは好きなものに囲まれていたいし嫌いなものはやっぱりすこしは遠ざけたい。みんな自分勝手なものだ。

 

 * * *


いなり寿司が残りふたつになった。お米ばかり食べるのも如何なものか。

怒りによって証明される、「正しさ」

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ここ2週間ほど、かなり精神的に参っていました。

大切な友人の死と、果たせなかった約束と、これから果たしたい約束。自分の軽率さと、でも意外に本当に彼女が大好きだったこと、心底悲しめてホッとしたし嬉しかったこと。

とにかくめためたに落ち込んで泣きわめいていつもならしないことをして、もうどうでもいいやーー!と。そんな中話を聞いてくれる人が幾ばくかいて、ああ、これは昔の自分じゃありえなかったなあなんて一瞬冷静に考えたり。たくさん考えてたくさん泣いて、そのあとには落語聴きに行ってたくさん笑ったりもしました。桂三度さん……元世界のナベアツさんの落語、とても楽しかったです。

 

さて、普段はかなり冷静に、メタな視線を常に持ち込んでいかに感情的にならないか工夫してるんですが、とにかく上述したようにここ数週間はそのあたりがぶっ壊れていたようです。結果的にはぶっ壊れてよかったなと思うし、まあ随分取り乱したけど、たくさん我慢してきたしいっか、と。

わたしはいつも落ち込みから回復する最後は「怒り」が来るのですが、それはたぶん精神的に参って心底弱っている自分に対する怒りと、弱っていることで自分と価値観の違う人……保守的な人と言ってもいいかもしれませんが、そういった人たちに「あなたの生き方間違ってるんじゃない? 」と問われてしまうからだと思うのです。

そしてそれを聞いてぐっと言葉を詰まらせて、黙ってしまう自分。怒りは保守的な考えを持つ人びとにではなく、実際のところ頭の中の「こんな生き方していいの? 」と疑問を抱く、冷静沈着なもう一人の自分に向けられている。

要は投影、ですね。わたしの中の保守的で我慢ばかりする自分が、ある瞬間人の形を取って現れて、そこではじめて自分自身に対する怒りを自覚する。

 

 *

 

前にも書いたのですが、自分は間違いなく「台風」な人間です。
世の中に台風な人と台風によって回される人がいるなら、自分は前者だろうと思います。そしてそれはきっと、こういう怒りのエネルギーに起因するのだと思う。

自分にとって「怒り」は一番怖い感情です。父も瞬間湯沸かし器と言われていたけど、わたしも間違いなく怒ると手が出るタイプの人間です。実際に一度母を殴ってしまっていて、とにかくそういう自分が怖い。他害する力、エネルギーを持っているということに自分自身で心底恐怖している。

でも今回ようやっと、その怒りもポジティブに使えるんじゃないかと思えました。怒ることで勇気も出るし、怒ることで自分の正しさが証明できるような気がした。わたしは自分の人生、ものごとの選び方が気に入っていて、それを他人に貶されようものならそれこそ他害する勢いで怒れる。もちろん実際に手を上げるとかしちゃいけないしそれはもうやらないのだけれど、でも自分の中の「怒り」のおかげで自分が何が好きで何を選びたいかハッキリする気がします。

 

今年の春退学するときも、やっぱり退学に反対する人のおかげでそれを選べたと思うのです。だから価値観の違う人というのは絶対に必要で、わたしはわたしと違う正しさを持つ人たちのおかげで自分の人生を選べる。

彼らには彼らなりの正しさがあり、わたしが何かもの言うことで、やっぱり怒りや悲しみを抱いているのかもしれない。そういうことは割と避けようとは思っているのだけれど……。しかしまあ、やっぱりどんなにネガティブに見えることでも決して無駄ではないんでしょうね。わたしは怒りによって自分の正当性を確かめられるけど、別の誰かは別の感情や論理によって自らの正しさを確認しているのかもしれない。

 

ただ、それはやっぱり人と関わらないとできないことなのかなあ、と。人との差異、考えや価値観の違いによって自らが確立されるわけです。

 

 * * *

 

とにもかくにも元気になって、また写真撮りたいなあとか古本市行きたいなあとか、宮本承司さんの木版画買いたいなあとか、ニコライ堂のバザー見てボルシチ食べたいなあとか。アクセスフラッシュしたいなあ、とか!欲が戻ってきました。幸せですね。

 

きっとまた落ち込むだろうけど、きっとまた怒って怒って元気になります。
以上!

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「わかる」は難しい

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共感の言葉っていうのは案外難しい。

一つ前の記事でも書いたけれど、人の完全な相互理解は不可能という前提があると、なんとなく、おいそれと「わかる」なんて口にできない気がしてしまうのだ。

それでも便利な言葉なので、つい使ってしまうし、実際よく使う。で、たぶん今どきはそれを快く思わない人も一部いるんだと思う。

 

共感を示すことはつまり親しみを示すことと同義であり、あなたと一緒ですよ、敵ではないですよ、仲間ですよという呼びかけである。それはコミュニケーションを円滑にする魔法の言葉であり、同時に「簡単にわかるなんて言いやがって」という気持ちを起こさせるものでもある。わたし自身心当たりがないわけでもない。

それでもきっと余裕ある人々は、あまりそのことを気にも留めずに、共感を示してくれてありがとう、親しみをもって呼びかけてくれてありがとう、と感じてくれていると思う。

 

わたしもできるだけそういう人間でありたいと願っている。自分自身の幸せと余裕が他者への寛容さを生み、ひいては世界平和へとつながるのだ。

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……ちょっと大きく出すぎたかな。でもたぶん本当のことなので!笑

みんな違ってみんないい?

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最近は色々脳の分析が進んで(?)、一般の人にも「どうも思った以上に自分たちはバラバラなんだ」という理解が進んできているのではないかと思います。発達障害やMBTI、エゴグラムなんかも今流行っているわけですけれど、そのどれもが、結局のところただのラべリングーー人を分類し名前をつける行為でしかないわけで。

理解できない他者を「理解できないままに」受け入れるための方便であり、そして、理解できない自分をなんとか理解できると思わせるためのある種のやり方。こういう納得のためのシステムとして星座占いや四柱推命なんかもあると思うのですが、それにちょびっと科学的な裏付けっぽいのが加わることで、より真実味を帯びて聞こえてくるのは、なんとも不思議なものですね。

 

思った以上に人は自分と違うらしい。思った以上に、自分は人と違うらしい。

この事実はきっと大昔からたくさんの人を悩ませてきたんだろうと思います。それでも科学という論理でがっちりで固められた(あるいは固められているように見える)世界に再度そう呼びかけられると、なかなか苦しいものがあります。

「ああ、完全な相互理解なんて不可能なんだ」という諦めに似た何か。ある瞬間とても楽しくて我を忘れて一緒になれたと思えても、次の瞬間には「ああでもやっぱり……」と考えずにはいられない。そうじゃない人も当然いるはずだけど、きっとわたしと同じことを考えている人もやはり、大勢いるだろうと思います。

 

とにかく人は本当に千差万別らしい。ブログで何度も形を変えて書いているけれど、本当に一人ひとりの体と心(脳?)は違うらしいのです。それでも他人の中に入り込むことなんてできないから、主観的にはあくまで「らしい」を使うしかないのが、なんとも悔しいというか、解せないというか……。

バイトのはなし

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大学時代は学業との両立のために、ほとんど長期バイトができなかった。この表現は間違っていないのだが、正確にはただ体力がないという理由で、ほぼ単発バイトしかできなかった。週の2日か3日は寝込んでいたので、極ごくまれに土日に単発をするので精一杯だったのだ。

 

バイトは大手のanやタウンワーク、フロムエー、大学が提携している学生向けのバイト情報サイトなどを利用して探した。バイト情報サイトを見るだけでも結構色々なことが分かって面白い。コールセンターやビラ配りはそこそこ時給が高く、1200~1500円くらいで募集がかかっていたと思う。できる人にはできるができない人にはできない仕事だからだろうか。無視されると心が折れるタイプの人には向かないし、離職率も高いことは容易に想像がつく。

バイトを探していると何ページにもわたって勤務地を変えただけの案件がならんで、大変に邪魔である。こういうことをするのは多くの場合飲食チェーン店、大手学習塾、登録制バイト・派遣バイトである。
同じような、というかまったく同じ内容のバイト情報が何ページにもわたって画面を支配し続けるので、だんだん見るのが億劫になってくる。面倒になって2ページ送りにしてもまだ続く。5ページくらい飛ばすとすっかり消え失せてしまうので、そこから1ページずつ戻って、単体で載っている零細かつ個人的な感じのバイトと、連続して載っている大手情報の切れ目を確かめてみる。こうして改めて説明すると馬鹿みたいだ。

 

 長期バイトにはじめて手を出したのは3年生の後半だが、この「3年生」という表現もやはり正確でない気がする。「25歳の」3年生である。自分は当事者なので何も感じないしよく分からないのだが、「25歳の大学3年生」は何がしかの感想を持たせるような文字列なのだろうか。一般常識からかけ離れた人生を送っていると、この辺はいまいちピンと来ないのである。

とにかく、25歳大学3年生のときに――つまり去年のことであるが――はじめて長期バイトとやらに手を出した。結局それも大学退学時のごたごたで辞めてしまったが……。そのときは事務バイトをしていて、来客時のお茶出しとか顧客ごとに書類一式を揃えて発送するとか、そんな感じのことをしていた。顧客のデータを見て適当な書類を用意し、軽く人情を感じさせるような一言コメントを添えた上で封筒に入れ、油性太マジックで住所と宛名と郵便番号を書く、みたいなやつだ。要はダイレクトメールの準備である。

 

どこでバイトをしてもそれなりに驚くのだが、仕事というのはまあ適当なさじ加減で回っているらしかった。大学を退学して社会にもまともに出ていないやつが何を言っているんだと思うかもしれないが、社会にまともに出られないのは結局のところ過度の慎重さ、真面目さ(加えて要領の悪さ、他人に一切合わせることのできないマイペース加減、融通の効かなさ、完璧主義)によるものなので、この感想は出て当たり前だと思う。

みんな厳密さなんて求めていないのだ。そしてそれで回ると言うことは、それで利益が出ていて、それで十分だったのだろう。そりゃあ業種にもよるんだろうけど、少なくとも中堅私大文系(加えて退学済み)に表示されるバイトはそんな感じだった。