今日も今日とてやきそばカレー

たのしければよいのだ

「わかる」は難しい

f:id:yakisobacurry:20181009121637j:image

共感の言葉っていうのは案外難しい。

一つ前の記事でも書いたけれど、人の完全な相互理解は不可能という前提があると、なんとなく、おいそれと「わかる」なんて口にできない気がしてしまうのだ。

それでも便利な言葉なので、つい使ってしまうし、実際よく使う。で、たぶん今どきはそれを快く思わない人も一部いるんだと思う。

 

共感を示すことはつまり親しみを示すことと同義であり、あなたと一緒ですよ、敵ではないですよ、仲間ですよという呼びかけである。それはコミュニケーションを円滑にする魔法の言葉であり、同時に「簡単にわかるなんて言いやがって」という気持ちを起こさせるものでもある。わたし自身心当たりがないわけでもない。

それでもきっと余裕ある人々は、あまりそのことを気にも留めずに、共感を示してくれてありがとう、親しみをもって呼びかけてくれてありがとう、と感じてくれていると思う。

 

わたしもできるだけそういう人間でありたいと願っている。自分自身の幸せと余裕が他者への寛容さを生み、ひいては世界平和へとつながるのだ。

f:id:yakisobacurry:20181009121552j:image


……ちょっと大きく出すぎたかな。でもたぶん本当のことなので!笑

みんな違ってみんないい?

f:id:yakisobacurry:20181008164828j:plain

最近は色々脳の分析が進んで(?)、一般の人にも「どうも思った以上に自分たちはバラバラなんだ」という理解が進んできているのではないかと思います。発達障害やMBTI、エゴグラムなんかも今流行っているわけですけれど、そのどれもが、結局のところただのラべリングーー人を分類し名前をつける行為でしかないわけで。

理解できない他者を「理解できないままに」受け入れるための方便であり、そして、理解できない自分をなんとか理解できると思わせるためのある種のやり方。こういう納得のためのシステムとして星座占いや四柱推命なんかもあると思うのですが、それにちょびっと科学的な裏付けっぽいのが加わることで、より真実味を帯びて聞こえてくるのは、なんとも不思議なものですね。

 

思った以上に人は自分と違うらしい。思った以上に、自分は人と違うらしい。

この事実はきっと大昔からたくさんの人を悩ませてきたんだろうと思います。それでも科学という論理でがっちりで固められた(あるいは固められているように見える)世界に再度そう呼びかけられると、なかなか苦しいものがあります。

「ああ、完全な相互理解なんて不可能なんだ」という諦めに似た何か。ある瞬間とても楽しくて我を忘れて一緒になれたと思えても、次の瞬間には「ああでもやっぱり……」と考えずにはいられない。そうじゃない人も当然いるはずだけど、きっとわたしと同じことを考えている人もやはり、大勢いるだろうと思います。

 

とにかく人は本当に千差万別らしい。ブログで何度も形を変えて書いているけれど、本当に一人ひとりの体と心(脳?)は違うらしいのです。それでも他人の中に入り込むことなんてできないから、主観的にはあくまで「らしい」を使うしかないのが、なんとも悔しいというか、解せないというか……。

バイトのはなし

f:id:yakisobacurry:20180929131337j:plain

大学時代は学業との両立のために、ほとんど長期バイトができなかった。この表現は間違っていないのだが、正確にはただ体力がないという理由で、ほぼ単発バイトしかできなかった。週の2日か3日は寝込んでいたので、極ごくまれに土日に単発をするので精一杯だったのだ。

 

バイトは大手のanやタウンワーク、フロムエー、大学が提携している学生向けのバイト情報サイトなどを利用して探した。バイト情報サイトを見るだけでも結構色々なことが分かって面白い。コールセンターやビラ配りはそこそこ時給が高く、1200~1500円くらいで募集がかかっていたと思う。できる人にはできるができない人にはできない仕事だからだろうか。無視されると心が折れるタイプの人には向かないし、離職率も高いことは容易に想像がつく。

バイトを探していると何ページにもわたって勤務地を変えただけの案件がならんで、大変に邪魔である。こういうことをするのは多くの場合飲食チェーン店、大手学習塾、登録制バイト・派遣バイトである。
同じような、というかまったく同じ内容のバイト情報が何ページにもわたって画面を支配し続けるので、だんだん見るのが億劫になってくる。面倒になって2ページ送りにしてもまだ続く。5ページくらい飛ばすとすっかり消え失せてしまうので、そこから1ページずつ戻って、単体で載っている零細かつ個人的な感じのバイトと、連続して載っている大手情報の切れ目を確かめてみる。こうして改めて説明すると馬鹿みたいだ。

 

 長期バイトにはじめて手を出したのは3年生の後半だが、この「3年生」という表現もやはり正確でない気がする。「25歳の」3年生である。自分は当事者なので何も感じないしよく分からないのだが、「25歳の大学3年生」は何がしかの感想を持たせるような文字列なのだろうか。一般常識からかけ離れた人生を送っていると、この辺はいまいちピンと来ないのである。

とにかく、25歳大学3年生のときに――つまり去年のことであるが――はじめて長期バイトとやらに手を出した。結局それも大学退学時のごたごたで辞めてしまったが……。そのときは事務バイトをしていて、来客時のお茶出しとか顧客ごとに書類一式を揃えて発送するとか、そんな感じのことをしていた。顧客のデータを見て適当な書類を用意し、軽く人情を感じさせるような一言コメントを添えた上で封筒に入れ、油性太マジックで住所と宛名と郵便番号を書く、みたいなやつだ。要はダイレクトメールの準備である。

 

どこでバイトをしてもそれなりに驚くのだが、仕事というのはまあ適当なさじ加減で回っているらしかった。大学を退学して社会にもまともに出ていないやつが何を言っているんだと思うかもしれないが、社会にまともに出られないのは結局のところ過度の慎重さ、真面目さ(加えて要領の悪さ、他人に一切合わせることのできないマイペース加減、融通の効かなさ、完璧主義)によるものなので、この感想は出て当たり前だと思う。

みんな厳密さなんて求めていないのだ。そしてそれで回ると言うことは、それで利益が出ていて、それで十分だったのだろう。そりゃあ業種にもよるんだろうけど、少なくとも中堅私大文系(加えて退学済み)に表示されるバイトはそんな感じだった。

充実感のあとの色褪せた世界

f:id:yakisobacurry:20180925011140j:image

すこしだけ、世界が灰色に包まれている。頑張った反動、虚脱の世界。とても静かで、お腹に力が入らなくて、声が掠れる。こういうのはプチ燃え尽き症候群とでも呼べばいいのかな。

 

バイトを始めたのは8月23日から。ここまでで7回働いた。たくさん歩く営業のバイト。今までの経験上、事務仕事は向いていないってわかっていたから、たくさん歩ける仕事を選んだ。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180925010931j:image

学校も図書館も映画館も事務の仕事も、人をそこに縛り付けるからあまり好きでないのだと思う。身体を拘束されるのは苦手だ。1時間もすると上半身がガチガチになって、みぞおちのあたりが苦しくなってくる。背骨もなんだかギシギシする。

もっと気楽に勉強し、本を読み、映画を観たい。たくさんのお喋りと、おいしい軽食と、ジャズ・フュージョンとか。そんな要素が揃っていれば、どんなことでもそれなりに楽しめるものだ。

 

人といるなら一対一がいい。集団に入ると両隣がわたしを挟んで会話を始めるから、ああいうのは好きじゃない。集団の会話の話題は、それぞれの関心の最大公約数的な内容に限定されるから、その内容に興味がない場合、どうしたって沈黙することになる。

でも、人は好きだ。わたしが喋るのも人の話を聞くのも、どちらもとても好きだ。わたしは一人称ばかり使うから、自分語りが好きだと思われているだろうけど、自分語りと同じくらいには、人の話を聞くのが好きなのだ。

知らない人生、知らない物語。今目の前にいる人のその在りようは、背後の物語があってできあがったものなのだ。面白くないわけがない。みんなとてもドラマチックだ。だからもっと怖がらずに人と接したいなと思う。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180925011241j:image

わたしは自分自身のことばかり考えていて、格好わるいな、とよく思う。格好のよい人になりたかったのだ。側から見たら、やっぱり無様で、格好わるくて、自分の内側ばかり見つめてるヘンな人なのかな、と。気になってしまう。

まあでも気にはなるけど、元々がこういう奴だから変えられないし。きっと頑なだろうと思う。人との間にある壁がとても分厚いから、やっぱり仕方ないのだけれど。ASDと診断されるだけのことはあるのだ。

ただの名前、診断名に過ぎないけれど、自分のある一部分に関してはその特性をよく表現できている名前だと思っているので、異存はないし、だろうなあという感じ。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180925011335j:image

昨日……正確には一昨日、日曜日の結婚式まで、なんとか頑張ろうと決めていた。日曜日の結婚式と、可能ならその翌々日のバイト。まずはここまで、短期目標。

バイトを始めた頃もちょっと大変だったけど、一瞬実家に戻って英気を養って、おばあちゃんと絵を描く約束をして東京に戻ったとき、「さあ、これからだ」と思った。

逃げてはいけないし、逃げるべきときじゃない。これは頑張る時間で、「頑張れる」時間だ。そんな時間はそうそう訪れるものじゃなくて、気づいてしまったのなら、後はやるしかない。これは大変だけども充実感のある、苦しみと幸せの時間なんだろうと感じていた。

そうしてなんとかなんとか泣きながらもやってきて、それでやっと、結婚式まで終わった。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180925011412j:image

短期目標を達成して、今はやっぱり、すこし空っぽだ。街を歩けば人とぶつかるし、なんだか注意力散漫で、ぽかんと呆けて、あまり物事がわからない。

でも悪い気分じゃないと思う。時間の経過とともに、きっとまた鮮明ですっきりとした頭に戻ってくれるだろう。

ただそれまでは、すこしぼんやり過ごしていようと思う。

メモ

楽しければいーのだと書いてる割に全然楽しくなさそうなので、反省した次第です……。

 

 *

 

自分を幸せにする選択をするんだった、そうだった。
疲労度が上がるにつれて増える行動一覧。

①ソシャゲをする時間が延びる
②ツイート数が増える、内容がオラつく、尊大になる
③漢字を多用する、ですます調の割合が減る
④鬱々とした映画やエロゲのネタバレを読んで満足する
⑤洗えない洗い物が増える
⑥多肉が徒長する(構いすぎ)
⑦街を歩くと人とぶつかる
⑧問題を解決していないのに自ら問題を抱え込む

一番厄介なのは⑧ですね。反省してください、わたし……。

f:id:yakisobacurry:20180924174011j:plain

理由

f:id:yakisobacurry:20180924114959j:image

今の自分にやれる精一杯をやっていると自信を持って言えるけれど、ああクソ、まだまだだなとすごく冷めた目で見ている自分もまた、同時に存在している。

人生は重い。これを引き受けると選んだどれもが、選んだからといって軽くなるわけでもなく。でも引き受けると決めたのだから、やるしかない。

選べる自分は前よりきっと強くて幸せなのかもしれないが、強くて正しくて自分の在りようを決められるなんて、それはそれでつらいもんである。知らなかったこと、わからなかったことが多かった頃とはまた別種の苦しみがそこには存在している。けれどもあの頃に戻りたいとは思わない……。

 

日々の生活の中、家の中、外に出て街を歩いている瞬間。ものと接しているとき、人と接しているとき。世界はたくさんの情報を訴えて、やれこれを見ろ、あれを見ろ、受け取れ、受け取れと、たくさんの何かが聞こえる気がする。デザインとそこに踊る文字、全てに人の意図があり、それを別に汲み取りたいわけでもないのだけれど、かなり一方的に自分の中に入ってくる。もちろん自分の中に入れることを選択しているときもある。

それらの情報を受け取り理解する瞬間、楽しいとも思うが、脳に負荷は確かにかかるし、記憶は蓄積される。

 

蓄積された記憶は何らかの手段で整理する必要がある。整理すればちゃんと脳を占める割合は小さくなるし、そうすればまた「空き」が出る。生活する以上、ある程度の空きは確保しなければならない。空きを確保できない結果が、以前の寝込みまくる生活なのだと思う。片付ければちゃんと片付くのは、脳も現実世界も一緒だ。

何らかの手段は、無意識的には夢を見ること、意識的にはこうやって文字にすること、自分の理解できる形に落とし込むことで達成される。

だからやっぱり、人に向けて書いているようで、そうでない。これはブログ記事という体で書かれているけれど、結局のところ、とてもうるさくて長い独り言に過ぎないのだ。それを面白がってくれる人もいるから、なんだか有難いなと思うけれど。

 

 

前にもうすこし強い薬で脳を止めたことがあったけど、あれはあれで駄目だった。とても世界がふわふわして浮ついて、地に足がついている感覚がなくて、あんな情報のない世界にはいられないと思った。

これらは全部わたしの主観で、他の人にとっての世界とその情報量は、また別に存在するのだろう。みんな別の世界を見ているし、感じている。世界の姿はある程度自分の意思でコントロールできるものではあるが、基本的には生まれ持った脳の特性によって傾向が別れるのだと思う。認識の仕方、どの感覚器官で感じるか。その人自身の性格。もちろんどれか一つということもなくて、状況や疲労度によっても変化する。変化、は全てにおいて基本となる仕組みのようである。

 

変化するのが当たり前なのに、こうやって言葉で何かを規定しようとするから、一貫性を保とうとするから、何かがおかしくなってしまうのだ。でも、文字の檻に閉じ込められることで得られる安堵も確かにあって、だから、良い悪いの問題でなく。自分にとって都合のよいように、言葉を扱う必要がある。

せめて自分のことは自分で名前をつけてやりたいと思う。誰かに名前を与えられるなんてまっぴらなので、こうやって考えて文字にして、何度も、何度も……。

 

 *

 

最近頑張り過ぎているので、すこし疲れた。過ぎているということはないかもしれないが、心のどこかで「ぶっ壊れるまでやってやろう」という乱暴な気持ちも持っていた。ただ、これが自己破壊的な気持ちかというとそうでもなくて、だって、意外にわたしの体は壊れないのだから。動くと信じれば、ある程度までは動いてくれるのだ。それはとてもありがたいことだ。

しかし何事にも限界というのはあって、限界を自分で決めつけてはいけないが、限界が存在するということは理解しておかないといけない。

 

全部ぜんぶ、程度問題、バランスの問題だ。どこに何をどれだけ、という問題だ。変化し続けてすぐに偏ってしまうバランスを、日々見つめて見つめて、あれをこっちに、それをこっちに……。

人は一人でも絶えず変化しているが、人だけでなく周りの環境も変化し続ける。一人の人間がど真ん中にいて、そのど真ん中自体も、ど真ん中を取り巻く人間たちも、人間以外の何かも、変化し続ける。動物は死ぬし花は枯れるし、物は経年劣化するし、全て、いつかは壊れる。

天気も変わる、四季もある。昨日の自分と今日の自分、昨日の世界と今日の世界は違う。精神的にも物理的にもやはり違う。空間も時間もこことここ、と二つを指し示せば、必ず違ってしまうのだ。

 

 

そんな全部、一切合切を……ある瞬間意識しながら生きていると、なんだかやっぱり大変だ。

楽しくて笑っていて、意識の濃度が薄いときもあるだろう。だけど自分の濃度はきっと大多数よりもとても濃くて、時間も空間もはっきりしていて、とても長く、大きく感じる。

たまに、意識の濃度だけでいったら、もうかなり長い時間生きたんじゃないかと思う。まだ26だ。来年には27になる。それは長いのか短いのか……よくわからない。今はすこし疲れているので、長いな、と思う。

まだまだ途方も無い時間が自分を待っているのかもしれない。けれども明日にだって死ぬかもしれない。未来のことはわからない。

だからせめて、いつ死んでもいいように。死ぬときには笑って「素晴らしい、最高の人生だった」と言ってやるために、毎日を、今この時を頑張って生きるのだ。

わたしは最高の最期のために生きている。

エネルギーの使い方、幸せでいること

自戒。

何か分からないけど、何かがうまく回り始めた。頭に霧はかかっていないし、週の半分を寝込んで過ごすこともない。もしかしたらこの一瞬だけなのかもしれないけど、だからこそ考えなきゃいけないことがある。

 

 * * *

 

そもそもの前提の話。

父さんはエネルギー値のとても高い人で、喋るだけで、存在するだけでものすごい圧があった。わたしは父さんよりも圧が強い人を見たことがない。もしかしたら、これからも、見ることがないかもしれない。

わたしは父さんを、父をとても尊敬しているけれど、同時に長年とても怖い存在だった。今もすこし怖いと思う。

母は父を台風のような人だと言っていたし、その例えはわたしもよく理解できる。わたしたち家族の中心で回る巨大な台風であるところの父と、その風に巻き込まれて回る母と姉とわたし。

 

 結局のところ、台風の力は娘二人にもちゃんと行き渡っていたようで、姉ちゃんは姉ちゃんで強いし、わたしも多分とても強い。何がというと説明しづらいのだけど、やっぱり、体の中に持っているエネルギーがとても大きい気がしている。

それは昔からうっすらと自覚していて、だから自分のことも、とても怖いと思っていた。自分のエネルギーをそのままの形で人に見せてはいけない。見せてしまったら最後、他者をとても危険な形で害することになるのだ。

 

  *

 

 無意識のうちに人と関わることを避けてしまうのは、やはり人を傷つけるのが怖いからなのだと思う。人と深く関わって、エネルギーをそのままぶつけてしまったら、本当に取り返しのつかないことになる。

エネルギーは加工してマイルドにした上で、やっと人に見せていいものになる。「ありのままの自分」という言葉があるけど、あれはわたしにとっての一番最悪な状態を指す言葉だ。未加工のエネルギーなんて、そんなもの見せた日には、人間関係は綺麗に霧散するだろう。霧散どころか爆散しかねない。

 

父は法律を学ぶことで自分自身を律することを覚えたらしかった。わたしの手元には法律はなかったから、自分で理性を可能な限り育てて育てて、感情を律することを覚える必要があった。

何年もかけて、エネルギーをいかに人に見せられる形にするか考え続けてきたし、実際に色々試してきた。毎日を全力で生きるのは、毎日を全力で生きないと自分の中の何かを消費できないからだ。だからずっと頑張り続けてきたし、これからも頑張り続けると思う。

 

エネルギーを効率よく使っていかないとその日の分が余って不眠になるし、大学やら何やらで自分を縛って行動を制限すると、今度はどうしようもない虚無感と無力感に襲われた。世界が灰色になって、わたしに対しての訴えを全て取り下げてしまうのだ。それは当然世界が変わったのではなく、自分の認識の中で起こっていることで、この感覚もとても恐ろしかった。

あるいは。自分を不幸せな状態に置くと、ずっとずっとよくない方へ考え込んで、社会を恨んで人を恨んで、嫉妬して、そんな自分も許せなくて、とてつもなく深い思考の闇に飲み込まれてしまうことも多々あった。

虚無も憎悪も、同じくらいに苦しいものなのだ。

 

  *

 

 だから幸せにならなきゃいけないのだと思った。積極的に自分を幸せにする選択をし続けてエネルギーをうまく回せていれば、他者を、もっと言えば自分を、害することはないのだろう。他者を害さないために思考を内側に向けると、小さな病気が大挙して押し寄せるので、あれは手を動かさないタイプの自傷行為なのだと思う。

大学も、自分を幸せにするためには、やっぱり辞めざるを得なかった。少なくともエネルギー効率を悪くしている、どうしようもないいくつかの思い込みを消すためには、そうするしかなかった。だから、ここまで何も間違っていないのだと思う。

 

わたしは幸せにならないと、きっととても簡単に人を傷つける人間になってしまうから、幸せでい続けなきゃいけない。今のうちにこれをよく覚えて頭に叩き込んでおいて、今後可能な限りブレないようにしたい。

 今ブログを書いてるこの瞬間をずっと後まで覚えておこうと思う。

頭の中をそのまま

毎日自分はどうしたいんだろうと考えてみたり、いや、そう考えること自体が不毛なのだから、今やれることをやればいいんだ、と思ってみたり。今の生活は不登校時と非常に似ていて、とにかく時間「は」たくさんあります。体力・気力は常人には及びませんが……。

 

夢とは一体なんだろう、とよく思うのです。夢。自己実現マズローの欲求五段階説のピラミッドの頂上。諦めるばかりだった人生だとも思うし、夢ばかり追い続けているような気もする。現実を見ないでふらふらしてる、という風に今の状態を批判することだって、やはりできる訳で……。そういう自分の中の他者の目、批判の目をどうやって説得するか、そして自分自身がどうやって納得するか、ぼんやりと考え続けています。

自分は納得なしには物事をやれない人間だと、それはもう分かっています。納得できないままに何かを続けると、心身に不調を来たして日常生活がままならなくなるので、納得は非常に大切な要素なのです。勉強も人間関係も、社会のレールも。

 

そもそも我が家は非常に特殊な家で、普通の会社員なるものをわたしは見てこなかったので、そういうルートは最初から抜け落ちていたように感じます。父さんはいつも家にいてフライパンでゲル状の物体を炒めていたし、勉強を教えるのは学校の先生より上手かった。

そうすると学校も会社というものも、それがあるべき姿だとは思わなくなってしまって、学校の勉強はわざわざ楽しくない教え方をしているし、家で好きな時間に休んでいる父を見ていると、なんで週5で会社に縛られなきゃいけないんだろう、と。

その辺の「当たり前」が、感覚的に全く分からないのです。

 

でもわたしはまだ親の庇護下にいて、生活は制限されていて、自由になりたいけれどそれにはお金が必要で……。同い年や年下の人が楽しく温泉旅行なんかに行ってるのを歯痒く思うけれど、じゃあ彼らと同じ生活が果たして自分にできるだろうか、と何度も自問を繰り返す。曖昧に時間は過ぎて、でも今の生活は嫌いじゃなくて、絵を描けると嬉しいし、人とたくさん触れ合うとやはり疲れてしまうし。

たくさんのことに関心を持つけれどどれも極められなくて、でもそれでいいんじゃないと言ってくれる家族と友人たち。

きっと幸せなんだろうと思います。とりあえず今この瞬間、閉じた言葉を使っていなくて(内容は閉じてるけど)、窓から陽が差して、電気を点けなくても部屋は明るい。音楽を流さなくても外は賑やかで、遠い工事の音と人の声がする。

 

それでも分からない何か。ずっと何かを掴もうとしているけれど、その何かは果たして本当に存在するのか。もっと元気に色々なことをしたい。欲求はあるが体と脳が追い付かない。優先すべきことは何なのか。一番大事なことは何なのか。

 

とりあえず今日はこれからシャワーをして絵を描いて、あと診察も受けなきゃですね。小5から薬を飲み続けている気がするけど、薬は、何の解決にもならないです。あれは気休めです。気休めはそろそろやめてしまいたいのだけど、脳はそれを許してくれるかしら。

f:id:yakisobacurry:20180905140603j:plain

小学生時代、「僕」と「わたし」

今、昨日の劇場版『聲の形』の冒頭を見直してます。なんというか、ありそうな話だなあ……という感想が最初に来ますね。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180826150914j:plain

わたしはどちらかというと、硝子側でなく石田側の人間だった。ガキ大将ではなかったけれど、とても幼くて、幼いがゆえに差別もしなかったし、残酷なこともしでかしていた……ような気がする。差別はしないから、スクールカーストというものには縛られていなかったし、理解もしていなかったから、万遍なく(本人としては)楽しく仲良くやっていて、それで十分幸せだったわけです。

ただ回数として多くは無いけれど、ある瞬間ある瞬間で、わたしが何かとても調子に乗ってしまって見境がなくなって、最終的にクラスから非難轟々、という経験が少なくとも3つあります。あの瞬間のなんとも気まずい、「あれ?何かやばいことしでかした……?」と意識と体が凍りつく感じは、今思い出しても恐ろしい感じがします。

 

ただ一つ断っておくと、当時のその環境でいじめと言うようなことはやっていないはずです。そもそも誰かをいじめたいという感情は持ち合わせていなかったし……。それでも今、いじめが以前よりずっと問題視されるようになった今なら、もしかしたら、ある一瞬だけを切り取っていじめだと言ってしまえることもできたかもしれません。ある瞬間、誰かを傷つけていた可能性は大いにあります。それについて、自分で恐ろしいな、と思う。

 

悪ガキだったというより、悪意も無く、ただ幼かった。でも低学年、中学年はそれで楽しくやれてたわけです。

小学校高学年にもなるとみんな精神的成長が顕著で、特に女の子はすごく理性的な「いい子」になっていきました。わたしの学校は県でも有名ないいとこの子どもたちが集まる、良くも悪くも選民意識の高いところでした。小学校から高校までずっとそのルート。で、やっぱり彼ら彼女らはとても頭がよく、子どもとは思えないほど理性的にふるまう子もそれなりにいた。学年が上がるごとにその差は大きくなって、どこかで何かが破綻した。わたしは、心のある部分の発達が遅かったんだと思います。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180826151123j:plain

今でもそうですが、「女性」……嫌な表現を使えば「女」というのが、とても怖いのです。自分の中の女性性もそう。つまり、男に対しての女、男を意識している女というのが、とても苦手です。自分の中にそういったものを発見する瞬間も、やはりうんざりします。

だからわたしは元々「わたし」になりたくなかった。「ぼく」のままでいたかった。なりたかったのは「わたし」でも「私」でもなく、「僕」であり、今も自分の中心の一番大事なところは今でも「僕」が担っていると感じる。絵文字も顔文字もスタンプも使いたくなくて、使う理由も分からなくて、朴訥な表現を使っていたかった。けれど、そうしていると「怖い」と言われたりするわけです。それもまた、今ならよく分かります。

同時に、いろんなコミュニケーション方法(言葉から非言語的なものまでなんでも)を使って人と仲良くしている人たちがとても輝いて見えて、羨ましかった。今でもすこし羨ましいです。

 

それでも少しずつ人と接するうちに、ああ絵文字や顔文字って便利なんだなあとか、確かに朴訥な文章は怖いと思う人がいるだろうな、とかは分かるようになりました。スタンプを送り合ったり画像を送り合ったりしてコミュニケーションを取る方法もあって、なるほど、それらも覚えてしまえば楽しいものだった。

こういったことは人と接して何度も間違えながら、見よう見まねで覚えていきました。わたしにとって大変なこれらのことを全く意識せず覚えていく人たちがいて、わたしのとっての「普通」の人たちというのが、ここに該当します。

 

 *

 

f:id:yakisobacurry:20180826152138j:plain

話はすこし戻って、今は「わたし」という一人称はまあまあ気に入ってます。ひらがな3文字で一見優しく見える(文章の中のひらがなの配分を稼げる)ことから使い始めたけど、自分の感覚では女の匂いがあまりしない気がするので、何となく好ましいと思える。少女的と言ってもいいかもしれません。

というか、いろんな日常のやり取りの中で、特に書き言葉で、一人称はきっとそこまで多用しないんですよね。鬱の人は一人称を多く使うとかいうツッコミどころ満載の統計がありますが、それは内向きで内省的な人か、そうでないかというだけのような気がします。

最近病気の名前が随分増えて、なんだかなあと思います。自分のことは自分で名前をつけさせてほしい。自分を定義するのは常に自分でありたい。昔確かに診断名で心が軽くなった瞬間はあったけれど、「今は」そう思います。

 

 *

 

わたしにとって意識があって考えることは当たり前だけれど、そうでない人もまた、どうやらたくさんいるようで。頭の中身は本当に、みんな違うらしい。なかなか実感できないしみんな自分のことしかわからないから、そこで齟齬が発生する。相手も自分と同じ感覚を持っているだろう……と。

だから、当たり前なはずの「みんな違ってみんないい」を真に理解することは難しいのだと思います。

たまには日記らしい日記を

f:id:yakisobacurry:20180825195428j:image

一昨日がバイト初出勤だった。その詳細は今書くには元気が足らなさ過ぎるので、割愛する。

 

その日は頭フル回転で長時間長距離を歩いたので、帰る頃にはすっかり足と頭が棒と漬け物石になっていて、だというのに山手線は止まっているし、本当に大変だった。結局さらに無駄に歩く羽目になって、今にもバキンと割れてしまいそうなふくらはぎを引きずって、ワンコイン横浜家系ラーメン(太麺やわらかめ)を食ってから、帰宅した。

f:id:yakisobacurry:20180825195443p:image

 

バイトについて一言だけ書いておくと、今まで見た中で一番「心がある」、いい会社に見えた。多分、社長のSさんが、結構苦労したのだと思う。わたしがサラサラふわりと胃にもたれない感じに昔の「地獄」の話をすると、それだけでよく分かってくれた。

 

かなり年上で人生経験を積んだ人か、同年代なら、質は違えどそれなりに深さのある地獄を味わった人じゃないと、何かとても大事なことを話せない気がする。その大事な何かは話さなくてよいものではあるが、お互いに「それ」を持っていると認識して初めて、安心して話せる気分になる。

世の中、地獄を経験した人は思ったよりいるのかもしれないが、でもやっぱり、思ったよりもいない。

だから、とても寂しい。

 

 *

 

引きこもり……ではないが筋肉も脂肪もついてない貧弱な体が一日頑張ってしまったので、一応、疲れているようである。一応と書いたのは、予想よりは幾分マシだったからだ。

 

翌日--つまり昨日だが--もなんとか起きれて、ここ数日読んでる水上先生の『戦国妖狐』の影響(?)で突然漫画を描いてみようと思い立ち、テキトーに描いて色を塗った。まだ1ページ目も完成していないが、どうやら描けるみたいだ。今まで挑戦しなかったことにある日突然挑戦すると、できてしまうことがたまにある。大学を辞めて覚醒したのかもしれない。

f:id:yakisobacurry:20180825194647j:image

 

昨夜はスーパーの見切り品とうもろこし2本298円を買って、金ローの『猫の恩返し』を見ながら貪り食った(疲れているから、食べた、とかそういうお上品な表現を使う気になれない)。

f:id:yakisobacurry:20180825194710j:image

f:id:yakisobacurry:20180825194721j:image

そうしてなんとかシャワーしてまた漫画読んでFGOして、寝たのが朝の4時。

 

明くる日、つまり今日は11時に目が覚めて、まあ悪かないなと思った。ひどいときは15時16時に起きるから、少なくともわたしの脳と体は起きれる、起きるだけの理由があると思ってくれたようである。

今日についてはまだ特段書くようなことは起きてない。FGOで星4鯖の水着メイヴが来たぐらいだ。なんか最近いっぱい来る。とりあえず剣式ちゃんをオールスキルマLv.100にしたい。

f:id:yakisobacurry:20180825195016p:image

 

 *

 

書きたいことが一番後回しになってしまって、それは疲労と明晰夢と恐怖についての話なのだけれど、もう疲れたから今回はこれでやめ。

脳みそがぼんやり、目が見えない。