今日も今日とてやきそばカレー

発達障害を抱えた25歳大学生がたのしく生きるブログ

柄谷行人『探求Ⅰ』メモ②

はてな界隈って意識高そうだからこういう記事書くのすこし怖い。

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第2章 話す主体(p45まで)


読み違えをしていた気がする。言語ゲームは「常識」や「当たり前」や「暗黙の了解」を共有している範囲を指すのかと思ったけど、著者や著者が参考にしているウィトゲンシュタインタインの主張というのはそもそもそういった内的な意味は存在しないという考え方に思える。前者はむしろソシュール的な考え方、ということになるのかな。外国人や共同体という例が使われていたから範囲の問題だと思い込んでしまったみたい?

確かに振り返ってみれば再三再四にわたってそのことばかり主張している。それはもう口を酸っぱくして言っている。そこまで繰り返さないとなかなか心に入ってこない、理解しにくい話というか。理解以前に認識しにくい話と言ってもいいかもしれない。わたしたちは何かと意味とか中身?だとか求めがちなのですなあ。理解できないのって嫌だし。説明つかないものはおっかないし。真実はあると信じたいし。

言語に内的で同一的な意味がないというのは本能的に否定したくなってしまう。ものすごく足元がおぼつかない感じがする。

ここまで読んでみて、本著は(今のところ)わかりやすい二項対立でできていると思った。要するに

言葉には内的で同一的な意味があるよ!(語る-聞く関係)
 →対称性、他我、考える、ソシュール

言葉には内的で同一的な意味なんてないよ!(教える-学ぶ関係)
 →非対称性、他者、疑う、ウィトゲンシュタインマルクス


……今p13に

彼にとって、「疑う」ことは、自らが「思う」ことが共同体(言語ゲーム)に属しているのではないかと疑うことにほかならない

って文があるの見つけたんだけど。また分からなくなってきた。

あー大学行く準備しなきゃ……。ゼミで先生に訊いてみて、何かわかったらまたここで書きます。