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発達障害を抱えた25歳大学生がたのしく生きるブログ

柄谷行人『探求Ⅰ』メモ④

今4章の途中。なかなかよくできた本だなーと思う。ウィトゲンシュタインマルクスニーチェもすごい。このお三方はそれぞれ違う方法で言葉が、モノが、意味や価値を内包しているわけではないと言っている(ニーチェはどんなだっけ)。

 

こういうことに思いを巡らせることができる人っていうのは、何がしか強烈な方法で「自分が人と違う」という体験をしてしまったのでは、と想像してしまう。自分の伝えたいことが正しく伝わらなくて、ものすごい絶望感に囚われた経験があったんじゃないか、と。もしかしたら自分の大切な誰かの体験したそれを見てしまったのかもしれない。ニーチェウィトゲンシュタインに関しては以前本を読んでいて、なんだかとても厳しい人だなあと思った記憶がある。物事を究極に突き詰めてて、ある意味冷徹。怖いくらいに徹底的。マルクスは……どうなんだろう。『共産党宣言』をちらっと読んだだけではわからなかった。

 

結局、理系の研究も文系の研究も同じところに向かってるのかしら。最近伊藤計劃の『ハーモニー』を読んでいて、「意識は報酬系によって動機付けられた脳内こびとさん達がそれぞれ欲求という名の意見を交わす会議そのものなんだ」みたいな話を読んだ。合ってるかな。つまり大事なのは結果ではなく過程、プロセスそのものということになる。意識はただ一つの真実として存在するのではなくて、脳内こびとさんが喚き散らしてる会議そのものを指す。わたしたちはその会議において「決定されたこと」を、あとから意識とか意志という言葉で表現しているに過ぎない。この意識に関する話は、まだ改めて調べていないけれど、たぶん実際に脳科学の分野で立証、あるいは立証はできていないけどもかなり有効な理論として打ち立てられているんだろう。わたしも自分の発達障害について調べるとき、散々報酬系の文字は見ているし。

 

〈追記〉

つまり、「命がけの飛躍」「暗闇の中の跳躍」は上述した脳内会議の話だと、中が見えない会議室(とその中で進行中の会議)を指すんだと思う。わたしたちには会議室の中で何が起こっているのかはわからない。会議が終わったあとみんなが出てきて「こういう結論になりました!  」とだけ報告されて、わたしたちはそれを信じ込む。そうだ、元々この結論に達するために会議は開かれたのだ、と。あるいは、議題がそもそも結論だったと思い込む。

そんな感じじゃないかな。

 

レジュメまとめなくっちゃ〜〜