FEELS SO GOOD

たのしければよいのだ

当たり前すぎて見過ごされる事実

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おばあちゃんちのフクロウ(不苦労)コレクション。

 

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丁寧語回、です。

生活も段々と安定してきて、今すこしだけ平和です。平和というのにはあまり慣れないし、経験上最長で2週間だと思っているので、今から諸々を覚悟しています。それでも今この瞬間が平和というのは、きっととてもいいことですね。

 

以前は結構未来に期待しがちでした。「このバイト、もしかしたら上手くいくかもしれない!」とか「もしかしたら単位、取れるかもしれない!」とか「ゼミでお友達、できるかもしれない!」とか。こう書き連ねると哀愁が漂ってきますね……。しかし、期待してもそんなに上手くはいかないし、上手くいったとしても期待の6、7割とか、そんなもんです。

だから今は、期待は極力しないように気をつけています。期待するとやっぱり戻ってくるダメージが大きいので、ダメージは極力小さくなるように、自分の気持ちを日々微調整しています。

 

今は希望は抱けど期待はするな、がモットーです。Twitterにも書いたのですが、期待と希望の違いは具体性にあると思うのです。持っているならゆるふわな希望の方がいい。しかし、こちらを持つのは、本当にすごく難しい……。今はみんな理由を欲しがる時代ですから、根拠もなくゆるふわに「なんとかなるかもしれない」なんて思えないのです。

でも、それでもやはり。わたしはどんな人でも無根拠に「なんとかなるかもしれない」と思っていいと思うし、それは可能なことなんじゃないのか、と考えています。少なくとも、「生きてさえいればなんとかなる」。

 

今までたくさんの人が全く同じ言葉を書いて、話して、使ってきました。そしてきっとたくさんの人がこの言葉を拒んでいったのだと思う。その中には死んだ人もいるかもしれない。それ自身を否定はしないし、人の権利として自分で自分の人生を終えるのもアリなのかな、と思ったりしています。

けれど、なんでこんなシンプルで飾り気もない本当につまんない言葉が使われて続けているのかといえば、それはやはり、ある種の真実だからだと思うのです。

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わたしは人の心を分析し定義して「直そう」とする精神医学というものが、ちょっとだけ苦手です。それはわたし自身が精神医学に何度も助けを求めて、でも結局助けてくれなかったという想いがあるから……だと思います。

助けてくれる人なんていなかった。助けようとしてくれる人、理解しようとしてくれる人はいた。その人たちにはとても感謝していて、やはり彼ら彼女らがいなかったら、どこかで詰んでいたかもしれない。それでも結局、最後に助けてくれたのは自分そのものでしかなかった。

 

 *

 

生きてさえいれば可能性が開けるなんて、ひどく曖昧で適当で、無責任な言葉だと思います。でも本当は、それくらい気楽にやってもよいのだと思います。そして、手段も選ばなくていい。たとえば、生活保護になったって全然構わないし、それに負い目を感じる必要はないと思うわけです。それは人の生存の権利と手段として確立されているのだから、安心して使ってよいもののはずです。

なのに何故みんな、そしてわたしが、様々な(広義の)生存の手段を拒むのかと言えば、それはどこかでその手段を使う人たちを馬鹿にしていて、下に見ているから……というのがあると思います。もちろん色々な理由があってできないパターンもあるのですが、それ以上に「やりたくない」のパターンが多い気がします。そこまで落ちぶれたくない。

 

しかし、人間ある程度のプライドや誇りも持っていた方がいいとも思うので、一概に「やりたくない」を否定するものでもないのですが。難しいですね。何にせよ、自分にとって都合よく世界を回すのは大事なことだと思います。

 

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書いてたら眠くなってきました。今は彼氏とも別れて毎日家族としか話せないので、割に孤独です。すこし力になってもらっている人もいますが。

目下の課題はコミュニケーション……。何と言っても、小5からろくにやってきてないので、どこから手をつけていいのかわからない。まともなフリをしているけれど、実際にはただ人が怖いだけの、やたらと心配性な一人の人間でしかない。

 

とりあえず明日からバイトです。期待はせずに希望だけ持ってテキトーに、いってきます。

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