FEELS SO GOOD

たのしければよいのだ

小学生時代、「僕」と「わたし」

今、昨日の劇場版『聲の形』の冒頭を見直してます。なんというか、ありそうな話だなあ……という感想が最初に来ますね。

 

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わたしはどちらかというと、硝子側でなく石田側の人間だった。ガキ大将ではなかったけれど、とても幼くて、幼いがゆえに差別もしなかったし、残酷なこともしでかしていた……ような気がする。差別はしないから、スクールカーストというものには縛られていなかったし、理解もしていなかったから、万遍なく(本人としては)楽しく仲良くやっていて、それで十分幸せだったわけです。

ただ回数として多くは無いけれど、ある瞬間ある瞬間で、わたしが何かとても調子に乗ってしまって見境がなくなって、最終的にクラスから非難轟々、という経験が少なくとも3つあります。あの瞬間のなんとも気まずい、「あれ?何かやばいことしでかした……?」と意識と体が凍りつく感じは、今思い出しても恐ろしい感じがします。

 

ただ一つ断っておくと、当時のその環境でいじめと言うようなことはやっていないはずです。そもそも誰かをいじめたいという感情は持ち合わせていなかったし……。それでも今、いじめが以前よりずっと問題視されるようになった今なら、もしかしたら、ある一瞬だけを切り取っていじめだと言ってしまえることもできたかもしれません。ある瞬間、誰かを傷つけていた可能性は大いにあります。それについて、自分で恐ろしいな、と思う。

 

悪ガキだったというより、悪意も無く、ただ幼かった。でも低学年、中学年はそれで楽しくやれてたわけです。

小学校高学年にもなるとみんな精神的成長が顕著で、特に女の子はすごく理性的な「いい子」になっていきました。わたしの学校は県でも有名ないいとこの子どもたちが集まる、良くも悪くも選民意識の高いところでした。小学校から高校までずっとそのルート。で、やっぱり彼ら彼女らはとても頭がよく、子どもとは思えないほど理性的にふるまう子もそれなりにいた。学年が上がるごとにその差は大きくなって、どこかで何かが破綻した。わたしは、心のある部分の発達が遅かったんだと思います。

 

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今でもそうですが、「女性」……嫌な表現を使えば「女」というのが、とても怖いのです。自分の中の女性性もそう。つまり、男に対しての女、男を意識している女というのが、とても苦手です。自分の中にそういったものを発見する瞬間も、やはりうんざりします。

だからわたしは元々「わたし」になりたくなかった。「ぼく」のままでいたかった。なりたかったのは「わたし」でも「私」でもなく、「僕」であり、今も自分の中心の一番大事なところは今でも「僕」が担っていると感じる。絵文字も顔文字もスタンプも使いたくなくて、使う理由も分からなくて、朴訥な表現を使っていたかった。けれど、そうしていると「怖い」と言われたりするわけです。それもまた、今ならよく分かります。

同時に、いろんなコミュニケーション方法(言葉から非言語的なものまでなんでも)を使って人と仲良くしている人たちがとても輝いて見えて、羨ましかった。今でもすこし羨ましいです。

 

それでも少しずつ人と接するうちに、ああ絵文字や顔文字って便利なんだなあとか、確かに朴訥な文章は怖いと思う人がいるだろうな、とかは分かるようになりました。スタンプを送り合ったり画像を送り合ったりしてコミュニケーションを取る方法もあって、なるほど、それらも覚えてしまえば楽しいものだった。

こういったことは人と接して何度も間違えながら、見よう見まねで覚えていきました。わたしにとって大変なこれらのことを全く意識せず覚えていく人たちがいて、わたしのとっての「普通」の人たちというのが、ここに該当します。

 

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話はすこし戻って、今は「わたし」という一人称はまあまあ気に入ってます。ひらがな3文字で一見優しく見える(文章の中のひらがなの配分を稼げる)ことから使い始めたけど、自分の感覚では女の匂いがあまりしない気がするので、何となく好ましいと思える。少女的と言ってもいいかもしれません。

というか、いろんな日常のやり取りの中で、特に書き言葉で、一人称はきっとそこまで多用しないんですよね。鬱の人は一人称を多く使うとかいうツッコミどころ満載の統計がありますが、それは内向きで内省的な人か、そうでないかというだけのような気がします。

最近病気の名前が随分増えて、なんだかなあと思います。自分のことは自分で名前をつけさせてほしい。自分を定義するのは常に自分でありたい。昔確かに診断名で心が軽くなった瞬間はあったけれど、「今は」そう思います。

 

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わたしにとって意識があって考えることは当たり前だけれど、そうでない人もまた、どうやらたくさんいるようで。頭の中身は本当に、みんな違うらしい。なかなか実感できないしみんな自分のことしかわからないから、そこで齟齬が発生する。相手も自分と同じ感覚を持っているだろう……と。

だから、当たり前なはずの「みんな違ってみんないい」を真に理解することは難しいのだと思います。